「私は銀行のエコノミストでした。でも、ほかの人のお金を増やす仕事には、まったく喜びが見つかりませんでした」
2026年9月、東京・銀座のアロッサ銀座でのランチョンセミナー。テーブルにはグラスが並び、シェフが丁寧に仕上げた料理が運ばれてくる。そんな場所で、ボールド・ヒルズのヴィディカルチャリスト(葡萄栽培家)、ゲイリー・クラブ氏は、自らの物語を語り始めました。
夢は料理人、次はワイン——ゲイリー・クラブ氏の軌跡
ゲイリー氏はカナダ出身。銀行の経済アナリストとしてキャリアをスタートさせましたが、もともとの夢は「手で触れるものをつくる仕事」でした。14歳の頃から料理をはじめ、シェフを目指したこともあります。理由は少しユニークで——「お母さんの料理がひどかったから、自分で作るようになった」と笑いながら話していました。
しかし25歳のとき、一緒に働いたシェフから言われます。「ゲイリー、君には向いていない。別のことをやった方がいい」。夢を諦めた彼が次に見つけたのが、ワインでした。
「いつもワインは大好きだったんです。でも当時のカナダワインは……正直、あまり良くなかった」
そこでオーストラリアのマーガレット・リバーへ。クラウディ・ベイの創業者の一人、デイヴィッド・ホーネン氏のもとで働きながら、初めてニュージーランドのピノ・ノワールを口にして衝撃を受けます。
「クラウディ・ベイのピノ・ノワールを飲んだときに、もう決めました。ニュージーランドのワインが持つ、あの生き生きとしたフレッシュな香り——あれが私の心を動かしたんです」

ニュージーランドに渡ってヴィディカルチャー(葡萄栽培学)の大学院プログラムで学び、在学中にセントラルオタゴの名ワイナリーのリースリングを飲んで「セントラルオタゴに行かなければ」と確信。
2015年、ボールド・ヒルズが日本の三田ホールディングスに買収されたタイミングで、オーナーの三田社長と面接——たった10分の会話で採用が決まったといいます。
「三田さんはすごく背が高くて、パワフルで、はっきりとした意見を持っている方。その10分で、もう私の採用を決断されていた」とゲイリー氏は笑います。
バノックバーンの土壌と、ピノ・グリへのこだわり
ランチョンセミナーのひとつ目のワインは、ピノ・グリ。軽やかな色合いとフレッシュな香りが印象的な一本です。
「このピノ・グリのクローンは、もともとイタリアから来たんです」とゲイリー氏。「古いタイプのクローンで、自然に房が小さくなる品種です。フランスの新しいクローンだと、1ヘクタールあたり9,000キログラム以上も収穫できるのに、このクローンだと約5,000キログラムしか取れない。経理担当者はがっかりするかもしれないけれど(笑)、それがこのワインの品質を生みます」

ボールド・ヒルズの土壌は、約1万年前の氷河に砕かれた「キラメキ(Kirameki)」と呼ばれるシスト岩の砂が重なる、軽くて水はけの良い特殊な土壌です。ブドウの木は養分の少ない土地で少しだけ苦しみ、小さくて凝縮した房を実らせます。
「私がピノ・グリの収穫タイミングに使う基準は、梨の香りです」とゲイリー氏は言います。「毎日畑に出て、ブドウを口に含む。梨——日本の梨、ナシの風味が感じられた瞬間が、収穫の日。その香りをそのままグラスに届けたいんです」
ピノ・グリはタイミングを少し誤るだけで、糖分が一気に上昇し、アルコール度数の高いワインになってしまう繊細な品種。だからこそ毎日の観察が欠かせません。
何度もテイスティングさせて頂いている、私も大好きなピノ・グリです。とにかく、ずっと香っていたくなるような美しくて、まさに梨と白い花のようなエレガントな香りが特徴です。
ブラン・ド・ピノ・ノワール誕生の秘密
セミナーのふたつ目のワインは、ブラン・ド・ピノ・ノワール。黒ブドウであるピノ・ノワールから作られた白ワインです。
このワインが生まれた背景には、オーナー・三田社長へのプレゼンがあります。ゲイリー氏が「新しいスタイルのワインをつくりたい」と提案し、2種類のフライト——冷やして飲む赤ワイン5本と、ブラン・ド・ノワール5本——を三田社長にテイスティングしてもらいました。
「冷やした赤ワインは、全部がNO。でもブラン・ド・ノワールの中に、ひとつだけOKが出た。フェルトン・ロードのヴァン・グリと呼ばれる、ピノ・ノワールから作られた、色がほとんどついていない、エレガントな白ワインでした」
その決断に従い、誕生したのがこのワインです。
製法は独特です。ピノ・ノワールを除梗せずに、房ごとシャンパーニュ式のプレス機でゆっくりと圧搾します。力強く素早く絞ることで、果皮と種由来の成分をできる限り除外し、果汁だけの純粋な風味を目指す。通常の白ワインが1,000キログラムのブドウから約700リットルのジュースを採るのに対し、このスタイルでは約560リットルしか採れません。
「3,800キログラムのブドウをプレスして、このワインができる。ロスは多いけれど、だからこそ純粋な味わいが生まれます」
このワインに使われたのは「ジャックス・ブロック」と呼ばれる区画。前オーナーが飼っていた犬の名前にちなんだ畑で、4種類のクローンが混植されていました。成熟速度がまちまちで、良質なピノ・ノワールを作るには難しい畑だったといいます。
「だからブラン・ド・ノワールとしてプレスして、皮ごと色をつけずに使う——それが最善の答えでした」

実は、残念ながら2026年ヴィンテージを最後に、この畑のブドウの木は抜き取られました。跡地には、フランスのブルゴーニュで最も難しく、最も素晴らしいとされるメンドーザ・クローンのシャルドネの植え付けが2026年秋から始まっています。
2〜3年後にボールド・ヒルズとして初めてのシャルドネが誕生する予定で、「セントラルオタゴで最も難しいシャルドネを、ボールド・ヒルズで作れることを、とても楽しみにしています」とゲイリー氏は話します。
このブラン・ド・ピノ・ノワールも、とてもエレガントで贅沢なワインで、Cave de Uのお客様にも人気の商品なので、今後作られるか分からないというのは残念でしたが、
シャルドネができることを心から楽しみにしたいと思います。
消費が変わる時代の、新しい挑戦
ゲイリー氏はワイン消費のトレンドについても話してくれました。
「ニュージーランドでは、2015年に一人あたり年間24リットルだったワイン消費量が、今は15リットルまで落ちています。でも唯一、年間10%ずつ伸びているカテゴリーがある——スパークリングワインです」
若い世代の食生活が変わり、重い赤ワインよりも、タイ料理や日本料理に合う軽やかなワインが求められるようになった。そういった変化に応えるため、ボールド・ヒルズは新たな挑戦を始めています。
2026年は、セントラルオタゴにとって過去30年間で最も冷涼なヴィンテージでした。「涼しすぎて大変な部分もありましたが、涼しい年は酸がしっかり残り、スパークリングワインに最高のベースになります」とゲイリー氏は笑います。
そして嬉しいことに、これまではスパークリングワインの製造のためにマールボロ(約600キロ離れた場所)まで輸送しなければならなかったのが、2026年からはクロムウェル(セントラルオタゴ中心部)に伝統製法専用の醸造設備が完成したんです。
初めて地元でスパークリングが作れるようになりました。
ボールド・ヒルズは2016年から合成農薬の使用をゼロにし、セントラルオタゴで初めて日本農林規格(JAS)のオーガニック認証を取得したワイナリーです。「日本の認証制度は世界一厳しい」とゲイリー氏は言いながら、その誇りは本物でした。
また2025年ヴィンテージからラベルをリニューアル。オーガニック認証取得を機に、よりワイナリーのブランドとしての表情を打ち出したデザインに生まれ変わりました。
変化し続ける時代に、ブドウの木と向き合いながら——ゲイリー氏の物語は、まだ続いています。

次の記事では、このランチョンセミナーでアロッサ銀座のシェフが生み出した、ボールド・ヒルズのワインとお料理のペアリング全コースをご紹介しています。
→ アロッサ銀座で出会った、ボールド・ヒルズとお料理のマリアージュ
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